はじめまして。
伊藤有美(いとうゆみ)と申します。
『無限大の夢を叶えるブログ』にお越し頂き、またこのページをご覧頂きありがとうございます。
2012年からシングル介護をはじめ、2019年1月、父が永眠し、長い介護生活が終わり、天涯孤独となり、現在は猫と1人+1匹で暮らしています。
「ネットで稼げるなんて一部の人」と頑なに思い込んでいた私が、開始から4ヶ月で月約90,000PVを達成し、アフィリエイトで月数万円稼げるようになりました。
私がアフィリエイトを始めたきっかけや、稼げるようになったきっかけなどをお話ししたいと思います。
略歴
横浜生まれの横浜育ち。
ですが、2015年夏に、父の身体的理由、また私自身の病気のために地方へ引っ越しました。
それまでは、2度の海外生活以外は横浜を一歩も出たことのない、生粋のハマっ子でした(きちんと横浜市歌歌えますよ!)
19歳で地元の大手企業へ就職するも、21歳で辞め、当時始まったばかりの派遣社員として働きはじめました。
当時は一般・営業事務でしたが、得意だった英語を独学で伸ばし外資系企業のセクレタリー(秘書)や貿易事務へとステップアップ。
貿易事務は勉強した人でも使って貰えない仕事で有名ですが、私は英語が出来たことと勉強することを厭わない性格からか、ラッキーなことに未経験で採用されました。
この間、21歳の時、1年近くをほぼハワイで過ごし(留学じゃありません)、日本で働きながらも第二外国語や第三外国語を取得。
仕事は激務でした。終電が終わってから仕事が終わり、タクシーで都内から横浜へ帰宅したことも。
残業というのが当たり前で、定時というのはあってないようなものでした。
19時頃仕事が終わればラッキー!大体20-21時に仕事を終え、満員電車で帰宅する毎日。
土日は休みでしたが、休日出勤することもあったし、連絡が来ることもあり、ワーカーホリックだったと言えます。
そんな日々をこなしながら、子供の頃から本が好きだったので、文芸翻訳家を夢見て、仕事する傍ら夜間には翻訳学校へ通っていました。
もちろん、そうしながらも年に2〜3回は海外へ行っていました。
ハワイの友人に会いにだったり、フランスの友人宅へホームステイだったり、その他外国もふらふらと一人旅をしていました。
その頃は、自分の将来に不安なんてなく、夢と希望しかありませんでした。
ただ、その反面、休みというのは全くないといっていい状態ではありました。
仕事が休みなら、翻訳学校の宿題や、第二・第三外国語のブラッシュアップに宛てていました。
でも、子供の頃から身体が丈夫ではなかったのに、人一倍働き動いていたからか、貿易事務というプレッシャーやストレスの多い仕事だからか、そんな生活は10年ほどで幕を閉じました。
病気で倒れる
そんな日々に終止符を打つきっかけは、ある日突然やってきました。
"めまい" です。
ちょうど、当時一緒に韓国語を勉強していた友人がめまいを発症し、メニエール病であることがわかりました。
そして、その後を追うように私自身にもめまいが...。
友人のこともあり、すぐに近所の耳鼻科へ行ったのですが、「こんなのめまいじゃない」という診断。
しかし、めまいは実際に起きているのです。
ちょうど、当時の職場の上司がやはりメニエール病を患った経験があるので、MRIを受けた方がいい、ということで脳外科でMRIを撮るも脳に異常はありませんでした。
つまりは、耳鼻が原因のめまいであることは明らかでしたが、近所の耳鼻科ではらちが明かず。
けれど、そんなことをしているうちに、めまいは酷くなる一方。
まっすぐ歩くことも出来なくなり、まるで酔っ払いのようにヨロヨロしながら、首都圏で2番目に利用者が多いと言われる電車で毎日通勤していました。
当然、電車もずっと乗っているのは辛いので、何度か途中下車しながらの通勤でした。
そして、下車後は、蛇行しながら勤務先まで歩きました。
でも、そんなこと長く続くはずがないんですよね。
そのうち、会社へ着くと倒れて休憩室で休まないと仕事は出来ないし、目がまわっていて椅子に座っているのも辛い毎日になりました。
それでも、貿易事務は待ったが効きません。毎日毎日朝から海外とやりとりしながら書類の作成等に追われていました。
また、この時アメリカの同時多発テロが発生したため、仕事はより忙しく大変になりました。
この時、航空便が乱れたのはアメリカ路線だけでなく、その他の海外線も乱れたんです。
しかし、外国人はそんなの考慮してくれません。航空便が飛ばないのはこちらがどうにかできる物ではないのに、「早く便に乗せろ!」の嵐。
こんなのを毎日やっていたら、病気でなくても病気になりますね(苦笑)
当時、貿易事務をやっていた方は私に限らず本当に神経がすり減る毎日でした。
そんな激務の中、めまいは酷くなる一方。
そして、メニエール病を患った経験のある上司に「契約満了時に更新せず、療養した方がいい」と言われました。
大変な仕事で、八つ当たりをしてくる嫌な上司もいましたが、好きな仕事だったので、この時のショックは計り知れません。
それと同時に、当時通っていた翻訳学校でも、初めはみんなと明るく話していた私が話さなくなり、休憩中はうつぶせて寝ているので、先生に理由を聞かれました。
素直にめまいがすることを言うと、不思議なことにこの先生もメニエール持ちでした。
そこで、仕事を辞めると同時に、今学期をもって一度勉強を休んで療養するよう勧められました。
先生いわく、翻訳家は不規則な生活になるから、どうしてもめまいを繰り返しやすいこと。
でも、一度きちんと良くなれば、後は注意しながら生活すればなんとかなること。
だから、翻訳家になる前にめまいを良くした方がいい、というアドバイスでした。
ここで、私の夢と希望は全てなくなりました。
10年に及ぶ闘病生活
仕事と勉強を辞め、文字通り療養生活に入りました。
しかし、耳鼻科でなんともないと言われたこと、脳外科でめまいは絶対良くなると言われたことから、脳外科に通う日々。
でも、人間身体が悪くなると心も弱るんです。
同時に鬱病とパニック障害を発症。
鬱病は、仕事を辞める前に眠れないことから通っていた会社の近くの心療内科へ引き続き通院。
でも、元職場は東京。自宅は横浜。
仕事を辞め、ホッとしたためかめまいは更に酷くなっており、起きることもできない、文字通りの寝たきり状態でした。
身体を起こすことさえできず、毎日、ただただ外を見ては絶望していました。
もう、二度と外へ行かれないのではないか、ずっとこのままの生活なのではないか。
この恐怖を味わったことのある人はなかなかいないかもしれません。
一人で通院さえできずに、全ての通院を父に頼っていました。
それでも、鬱病は一度はなんとか治しました。
しかし、めまいの発作が恐怖となり、パニック障害は残ったまま。
こんな生活でもくじけず病院へ行っていましたが、ある日、「やはり耳鼻が原因では?」ということで耳鼻科を紹介されました。
紹介された耳鼻科では、「メニエール病の可能性が高い」ということで、大学病院でメニエール病の検査をするよう紹介状を貰いました。
この大学病院まで、車で約1時間。そして、辛いメニエール病の検査。
しかし、いい先生ではなく、紹介状を見ただけで文句の連発。
あげく、「ただのめまいでメニエールじゃないからうちでは知らない」と医者とは思えない言葉を言われました。
結果、どこへも行くところがなくなり、また脳外科へ戻りましたが、ある夜激しい回転性めまいを起こし、救急車を呼ぶも受け入れ先がなく朝を待ちました。
その間、数時間激しい回転性めまいと激しい吐き気に見舞われていました。
そして、朝になり、父が近所の大学病院へ電話し事情を話したところ、「今すぐ来れるなら、めまい担当医は今日いないけれど診る」と言われ、急いで行きました。
この時診察してくれたのはめまい専門医ではなかったのですが、やはりメニエール病の疑い。
とりあえず、めまいを落ち着けるお薬を貰い、後日めまい専門医の診察。それでもやはりメニエール病の疑い。
そして、再度メニエール病の検査を受け、メニエール病と診断。
めまい発症から、メニエール病の治療開始まで実に2年近くが経過していました。
それでも、頑張って通院し、お薬を飲み、なんとか手術なしでだいぶ回復し、一日数時間なら起きることができるようにはなりました。
しかし、ここまで来ると当然体力はなくなっています。そして、それはどんなに体力をつけるために頑張ってもなかなか元には戻りません。
しかも、春と秋はめまいのシーズンでどうしても寝込んでしまいます。
それでも、また仕事へ復帰する希望は捨てられませんでした。
そのために必要なのは体力です。
市内での仕事もありましたが、都内の方が仕事が多いため、できれば都内も視野に入れたい。
そこで、段階を踏んで復帰しようと、週2回のパートから始めました。
復帰の第一歩としてパートへ
以前のように仕事をするために、まずはパートから始めましたが、立ち仕事です。
これは結構キツかったです。
それでも、続けていれば慣れて体力もつくと思い頑張っていました。
でも、気持ちではどうしようもありませんでした。
週2回とはいえ、繁忙期は朝から夜までで連勤ということも。
それを続けているうちに、パニック障害は酷くなる一方。
そして、落ち着いてきていためまいも度々起こすようになりました。
けれど、シフト制のため、当日いきなり休むにはピンチヒッターを自分で探さなければいけません。
でも、そんなことが続くと仲良くしてくれていた人もどんどん離れていきます。
陰で「なんであんなに休むの?」と言われていたようです。仲の良かったシフトマネージャーに言われました。
このシフトマネージャーがいい人だったのでなんとか続けていましたが、一気に変わった店長と副店長がどうも合わず、話す人も限られていっていたため、パートを辞めました。
父が二度目の脳梗塞で倒れる
パートを辞めた直後、父が2度目の脳梗塞で倒れました。
そのとき、私を励ましてくれたのが韓国の親友でした。
父が倒れたことを親友に伝えた2日後、彼女は日本へ父のお見舞いに来てくれました。
この時に彼女が言ってくれた、「貴方が一番辛い時にそばにいてあげたい」という言葉は一生忘れられません。
4ヶ月ほどして父は退院しましたが、脳梗塞の後遺症で性格も激しくなっていました。
高次脳機能障害です。
このときは、どう父に対応していいのかわからず、精神的にかなり辛かったです。
それでも、父が入院中に「退院したら韓国に来てね」という誘いもあり、退院して2ヶ月後に父と韓国へ。
1週間の韓国旅行でしたが、宿泊は友人宅。
また、父が歩くのが大変なため、うちにも遊びにきたことのある友人の妹が毎日車を出してくれ、韓国各地を4人で旅行しました。
この時、妹の彼氏や友人の友人などにも会い、良くして貰いました。
当時、簡単な韓国語はできたのですが、もっと韓国語を話せるようになりたいと思い、アルバイトで貯めたお金で韓国留学を決意。
病気持ちのため、友人宅に滞在すること、また韓国でも病院へ通うこと(日本で貰ってるお薬は父に送って貰うこと)が条件。
ちなみに、病院の先生には、事後承諾というあり得ない渡航をしました。それが2011年でした。
帰国とECサイト立ち上げ
約1年の韓国生活を終え、帰国したのが2011年暮れ。
そこで悩んだのが仕事でした。仕事はしなくては食べて行かれない。
けれど、帰国した時待っていた父はかなり弱っており、そして物忘れも入っており、とても一人にすることはできない状態でした。
そして私自身の身体を考えると派遣社員でも無理。
そうした時に、韓国で見た物を日本で、と思い2012年春にECサイトを立ち上げました。
でも、ECサイトもなかなか稼げない。
それでもSEOは業者へ頼み、また「とにかく安くないと売れない」と言われたため、ブランドを低価格で提供することで、確かに売れるようになりました。
この時、私は大人喘息発症、そして疲労から肝機能低下。
肝機能が回復してから、昔からの夢だった、父をハワイへ連れて行くことが実現。
この時はまだECサイトを続けるつもりでした。
しかし、消費税増税と儲かる商材だからと、大手がどんどん参入。
これで売上が1/4にまで半減。同業者もどんどん辞めていき、後から参入した資本の大きいところばかりとなってきました。
低価格で売ることは確かに売上にはなるのですが、仕事量が増えるだけで純利益はなかなか出ません。
そうなると、個人事業主では大手に太刀打ちできません。
そこで、一気に路線変更。他店との差別化を計りました。
ただ、SEOだけは大手にお願いしました。
しかし、大手SEO業者に大金をはたいても売上は回復せず。なので、自分の力でなんとか回復させようとSEOを勉強し、トライ&エラー。
おかげでだいぶ回復はしたものの、私自身が疲れ果てていました。
それは、お客様の対応。これでかなり精神がすり減っています。場合によっては休日返上となることも。
そんな中、父の足がどんどん弱り、坂ばかりの横浜での生活が厳しくなってきたこと、そして私自身の喘息は外へ出ること自体が困難なほど悪化していました。
そんな時に思い出したのが、ハワイでの私の喘息具合。
ハワイでは1週間、一度も発作を起こすことがなかったのに、帰国して成田で外へ出た途端喘息発作が。
このことから、都会の空気が良くないと結論。もちろん、坂ばかりの横浜では更に喘息は厳しいです。
そして、2015年、大好きな海のある東北の城下町へ移住。
しかし、父の介護度はあがり、お金がかかるのにECサイトだけでは食べて行かれないため、パートを考えたのですが、地方のパートは都会のパートとは違いました。
都会ではパートは時間や曜日を選んで、都合の良い時にシフトを組むことができます。
ですが、こちらではそれができませんでした。
それに、メニエール病のため車の運転が危ないので車は乗れません。
そうすると、地方では仕事というのができません。
そのため、父のことや家のこと、そしてECサイトもあることから断念。
そんな中、右肺に腫瘍が見つかりました。パートの難しさとこの腫瘍の発見が、アフィリエイトを本格的にやろう、というきっかけになりました。
アフィリエイトを決意
実は、アフィリエイト自体は病気療養中から知っていて、当時「これからは携帯アフィリエイトだ!」というので、とある塾に入りました。
しかし、「稼ぐにはアダルトをやれ」と...。
これ、女性なら抵抗を持つ方多いと思いますが、私も抵抗ありました。
なので、アダルト以外で、と考えアダルト以外で稼いでいる人が「商材購入してくれたらフォローします」と言うので購入。
これがGoogleアドセンスのようなクリック広告だったのですが、設置方法等教えてくれただけで終わり。
結局、稼げないままだったので、私の中では、"アフィリエイト=悪" でした。
それでも、時代が変わり、ブログでアドセンス広告で稼げるというのは知っていました。
療養中からやっていた趣味ブログを通じて知り合った方で有名なプロブロガーさんもいらっしゃいます。
でも、プロブロガーとしてやっていくにはアクセスが必要。
だけど私のブログにはそんなアクセスはないし、ノウハウもない。なので、「ブログで稼げる人はほんの一握りの特殊な人たちだ」と思っていました。
けれど、自分が腫瘍となり、その検査が続き、自分の命がどうなるかわからない不安。
母が肺癌で亡くなっていることも、不安が増大する要因の一つではありました。
しかも、喘息持ちのため日帰り検査可能なものまで検査入院になる始末。
日帰り検査でも、検査後は喘息発作で、検査疲れと発作疲れが酷い毎日でした。
そして、父が圧迫骨折をしたため、毎週休みの日は通院付き添いでした。
毎日、仕事、家事、父の入浴介助で、どんどん私の体調は悪化し、介助先の病院で私が倒れたのも一度や二度ではありません。
そうなると、ECサイトは自分以外変わりがいないので、受発注と問い合わせ対応のみが精一杯になりました。
当然、売上はどんどん下がっていきます。
そこで、「ネットで稼ぐ基盤をなんとか作ろう」と思いました。
そして、ネットを色々身ながら、コンサルをお願いした方が無駄がないと判断し、安くコンサルティングをして下さっている方に4ヶ月師事。
そのお陰で、ブログで稼げなかった私が4ヶ月で約90,000PVを達成し、月数万円の収入を得ることができるようになりました。
このブログをはじめたきっかけ
世の中には私と同じように持病を持っている方が多くいます。
それは肉体的な疾患であったり、精神疾患だったり様々です。
しかし、そんな疾患があると正社員として働くことが困難な場合もあります。
私の周りにも精神疾患があり、ギリギリの体力でパートをしている人がいます。
でも、当然ですがパートでの収入ではギリギリの生活です。
これでは、経済弱者です。
そして、他にも介護をしている方も同じです。
介護というのは、時間と体力が消耗されますが、介護者が一人の場合介護離職をせざるを得ない場合があります。
世間では「福祉サービスを使って介護離職はするな」と言います。
ですが、福祉サービスを精一杯使っても、介護者が問題なく仕事ができるかと言えばそうでもありません。
通院がある場合は、介護者は同伴です。
もちろん、厚生労働省は介護休暇・休業制度を設けてはいます。
しかし、子育てに比べるととても内容はお粗末です。
そうした場合、離職したくなくても離職せざるを得ないのです。
そして、介護というのはとにかくお金がかかります。
ましてお年寄りなので、体調を悪くすることも多いので入院となることも多くなります。
つまり、介護も経済弱者となってしまうのです。
「働きたくても働けない。だけどお金はかかる」
私がそのいい例ですが、世の中には外で働きたくても働けない人がいる。
親が生きているうちはいいですが、当然ですが親はいつか亡くなります。
では、働けない人たちはどうなるのか。
生活保護しかありません。
しかし、生活保護を受けるには色々大変なこともあります。
だからこそ、そんな経済弱者となりうる人たちにこそ、ブログで稼ぐ力を身につけて欲しいのです。
もちろん、簡単ではありません。
最初はお金にもなりません。
でも、外で働けないなら、他に選択肢はないですよね。
世の中、「お金じゃない」と言われます。
ですが、あえていいます。
世の中、お金です!
天涯孤独でお金がないのと、お金があるのとでは全然違います。
変な話し、お金がなければお葬式だって出せない、法要もできない、なんてことになります。
当然、お金がなければ人の心はすさんでいきます。
世の中、お金じゃないというのは綺麗ごとです。
確かに、お金以外の幸せというのは存在します。
それでも、お金がなければそれすら感じとる心がなくなってしまいます。
持病のある人、介護をしている人。
そんな経済弱者となりうる人たちを私は見過ごすことはできません。
なぜなら、そんな人たちはまさしく私自身だからです。
このブログの理念
ブログで稼ぐ系の情報発信をしているブログはたくさんありますよね。
なので、私は稼ぐ系の情報発信ブログをするつもりはありませんでした。
でも、アフィリエイト界隈での嘘や誇張がイヤになったんです。
そして、初心者の人はそれを信じてしまう。
結果、「アフィリエイト=悪」という概念が根づいてしまう。
それをなんとかしたいと思いました。
だから、このブログでは嘘は書きません。
そして、外で働けない人たちにスポットを当てたかった。
経済弱者となること。
それで余計に苦しんでしまう人を一人でもいいから減らしたい。
そして、このブログを通してそんな人が一人でも減り、少しでも希望を持って生きることができたら。
そんな思いからこのブログを始めました。
私があなたに伝えたいこと
アフィリエイトをやっている人の中で、月5,000円以上稼げている人は5%しかいない、と言われています。
これだけネットでアフィリエイトの方法や商材が売っているのにですよ?
実際、私も稼げない一人でした。
騙されたこともあります。
だから、「アフィリエイト=悪」、「アフィリエイトは稼げない」と思う気持ちは人一倍よくわかります。
だけど、ネットビジネスをしている人全てが悪ではありませんでした(もちろん、自分が稼ぎたいだけの人もいます)
そして、アフィリエイトは正しくやれば稼げる、ということも身をもって体感しました。
なので、私と同じように「アフィリエイトなんて稼げない」と思っている方、挫折した方、挫折しかけている方のお役にたてたら、とこのブログを始めました。
ブログで稼ぐことは実際に可能なんです。そして、そこには無限の可能性があります。
「アフィリエイトは飽和状態だ」なんて言う人もいるようですが、私が本格的にアフィリエイトに取り組んだのは、2016年です。
思い切り後発です。それでも、稼げるようになりました。
だから、「ブログで稼ぐなんて無理」なんてことはないんです。
正しいやり方で地道にやっていけば、必ず結果はついてくるんです。
実際、本業をやりながら、家事と介護をしながらの私がきちんと結果を出すことができました。
確かに、楽ではありません。
「1日5分で」とか「楽々収入」とか、「ネットサーフィンできればOK」とかそんなのは全て嘘です。
正しいやり方を知らないと、何ヶ月たっても何年たっても稼げません。そのためには知識を身につける必要があります。
また、始めてすぐに結果が出るものではありません。私は早かったのですが、普通は3ヶ月かかると言われます。
なので、やり方をしっかり習得して、パソコンスキルも身につける必要があります。
そう言うと「やっぱり無理」と思うでしょうか。
想像だけしているとすごく難しそうですよね。
でも、実際にやっていってみると、最初は戸惑うこともあるし、途中壁にぶち当たることもあるけれど、知らず知らずのうちに出来るようになっていきます。
「自分には無理」そう思った時点で負けなんです。
「難しいかもしれない」そう思いながらも、続けたら、そこには必ず道が広がっているんです。
決して楽ではありませんが、数ヶ月頑張ることで必ず結果は手に入ります。
ネットで稼ぐという、夢のような現実があなたのものになります。
だから、諦めないで下さい。
そんな諦めた心を持ってしまった方に、「ネットにはまだまだ無限大の夢と可能性がある」ということをこのブログを通じてお伝えしていきたいと思っています。
そして、経済弱者となりうる人たちが経済弱者などではなく、逆にサラリーマンとして働いている人たちよりも充実した人生が送れるようお手伝いをしたいと思います。
もちろん、私もまだまだ道半ばです。毎日試行錯誤を繰り返しています。
私はあなたに最も近い立場でお話しができると思っています。
今、これを読んで下さっているあなたと数ヶ月前まで同じ立場だったからこそ伝えられる物があると思っています。
長くなってしまいましたが、悪い条件が重なっている私ができたんです。
だから、諦めずに頑張りましょう!
Dream Come Trueという言葉を信じて...
最後まで読んで下さり、ありがとうございました!